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  合気道について

 

合気道は植芝盛平が創始したと言われています。

その最古参の弟子に富木謙治(柔道・合気道ともに八段)がいました。

富木謙治は、当時早稲田大学の柔道部に在籍し、幹事を務めていたこともあり、柔道を創始した嘉納治五郎の薫陶を受けることがしばしばあったようです。柔道は元々江戸時代までの柔術(天神真揚流、起倒流)を嘉納が学んでおり、それが元になっています。嘉納は柔道の乱取を行うに際し殺傷性の高い技(それは主に当身技、関節技)を省いて行いました。組方を起点とした投げ技、寝技等から入り、その流れは現在の柔道につながっています。嘉納治五郎はそれだけにとどまらず、当身技、関節技に関しても乱取化を目指していました。しかし、現在の柔道では当身技、関節技は殆ど見られません。嘉納治五郎は目指していたにもかかわらずなぜそれが出来なかったのでしょう。ここではその経緯は省略しますが、結果的にその意思を継いだのは富木謙治でした。

富木謙治は、植芝盛平から学んだ技術を嘉納治五郎の柔道原理に従って整理分類し、現在一般的な合気道の練習で行っている形ばかりでなく、乱取も行えるように工夫したのです。それは決して形を軽視するというものではなく、むしろ徹底的に形を稽古した末に乱取を行うという手順を踏みます。その結果、形だけでは得られない実力を養成することになるのです。形は約束稽古であり、その練習だけでは本当に相手に技がかかっているかどうか、自分に実力がついているのかどうかは客観的には分かりにくいところがあります。乱取に至る稽古では抵抗する相手にかけるので、約束によらない本当の実力を身に着けていくことができるのです。

形稽古から乱取稽古に進み、更に試合を行うことは、自分の実力を試すことが出来、特に若い青少年にとってとても魅力的なシステムといえるでしょう。現在、多くの少年少女、大学生等の青少年が大会で技を競い合っています。

 

 

※参考  志々田文明・武術・武道論研究室 「研究目的(概要)」より

 

(前略)嘉納の近代性と偉大さが強調される文脈での研究・教育状況に対して、筆者が疑問を持ったのは1970年代後半である。筑波大学体育研究科修士論文(嘉納治五郎の柔道観とその展開,1979)の作成過程で出会った嘉納の様々な言説を読む中で何度も出会ったのは、嘉納が競技柔道の現状に大きな不満を持っている事実であった。それは例えば、「練習の際、何時打ったり突いたり蹴ったりして来るかも知れぬという心構えを以て対手に接しなければならぬ。それには頭や顔は対手から攻撃し難い位置に置かねばならぬ。(中略)出来るだけ四肢にも体駆にも力を入れず、自由自在に動作の出来るように、自然体の姿勢を保つ」(柔道, 1934年11月号)という指摘である。それは当身技による攻撃を想定して武術(真剣勝負)の観点から柔道のあり方を正したものであり、審判規定の範囲外のことであった。1918年の論説には、嘉納は将来を展望して、「従来の柔道と剣道とは合体して一のものになる筈と思う」(柔道, 1918年7月号)とまで語っている。武術としての柔道の発展に対する嘉納の言葉は実践を伴う真摯なものであった。嘉納は他武術の関心を持って、ボクシング、空手、合気柔術、棒術、レスリングなどを自ら研究し、一方で講道館内に武術研究所を設立して、他武術の研究の必要性とそれらの優れた内容を柔道に統合する計画(剣に重きを置く柔道と剣を軽く見る柔道)をもった。それは嘉納が柔道に与えた概念「心身の力を最も有効に使用する道」(精力善用)から来る必然的な態度であった。嘉納の課題を受け継いだのが、第二代講道館長南郷次郎であった。南郷は講道館に「離隔体勢の技の研究委員会」を設置し、そのメンバー兼講師に、当時「合気武道」を修行していた富木謙治を指名し研究が行われた。こうした事情を不十分ながらも修士論文で指摘したのである。(後略)

 

 

 

 

 

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